雑記 性善説・性悪説に偏屈な人間なので、楽観主義/厭世主義の対立に使われると、むっ!って面倒な所が出てきます。偏屈〜。 言うてこんなの中身を知らなきゃ知らないままだし、言葉の変化の一環で主客が転倒するのはよくあるのでしゃーないとも思う。このひとたち、字面が強すぎる。本性の性に、善悪の対立概念のコンビはつよすぎ。 孟子の性善説・荀子の性悪説は、どうすれば人間って善くなるの?という問いに軸を置いており、どちらも教育や学問、道理を知っていく事で善くなるから学ぼうね、という結論は共通。 孟子と荀子って師弟関係だし、二人とも孔子の儒教をやってるので仁を重視する。 結論部分では対立しないので、類似的な思想という認識。 性善と性悪は、そもそも人間はなんで悪い事するんですか?という前提の問いに対する答えに掛かっている。 孟子は人間は恥とか思いやりとか本来善くあろうとする意志はあるけど、後天的要素・環境・勉強不足で悪に走るとし、荀子は人間は欲求に従うようになっており本性的に悪だからと理由付けをする。 ここに差分はあるけど、先述した通り、結論としては学問していけば、本性が発揮されて/本性を克服して、人間善くなるので学べ! というもの。 結局、条件付きで人間は善くなれる以上、楽観でもなければ厭世でもないよね、というアレ。 ただ、前提理解が異なるから別物としてカテゴライズする必要がある。何故学問しなきゃいけないのかっていう理由付けが違うから。 偏屈で長〜い自分語りこれを踏まえて個人的には性善説寄り。 人間は怠惰で欲望に流れるどうしようもない傾向は否定できないけど、何だかんだ善くありたい意志も否定できないため。 純粋な善意はないかもだけど、その制限の中で善くはありたいんじゃなかろうか。ビジネス書なり自己啓発なり思想なりが廃れないのは、そこら辺の若干の現れだろうと思っている。こういったものの根底にはどうあるべきか、あるべき姿や理想は何かという定義付けが、形は違えど、そしてその定義が客観的に正しいかも別として、どうしたって避けられない。目的・目標のない方法論はナンセンス。精神的な何かを目指す方法論であっても、こう感じるのはそういう事なのでは。 目的となるあるべき姿・理想は、悪を避けるだけ(規範に従うだけ)なら別に抱く理由はないし、理想を追いかけるとなると、コストと言い手間と言い、いよいよ割に合わない。仮に怠惰を含めた欲求が本質に直結するなら、理想までは追わなくても糾弾されないのだから、最低限の規則だけ守っていればそれで良いとするのが自然。 それでも、あるべき姿や、善くなり得る事を前提として思考する・感じる・嫉妬する・学ぶ・規制する傾向もあるのだから、本当に見えない部分、損なわれない本質の中に若干の善が関わっているのではないかと考える。 ただあるべき姿の定義があまりに一様でないので、善が現実に芽生えることが可能かどうかは知らない。畳む 2025/08/25
言うてこんなの中身を知らなきゃ知らないままだし、言葉の変化の一環で主客が転倒するのはよくあるのでしゃーないとも思う。このひとたち、字面が強すぎる。本性の性に、善悪の対立概念のコンビはつよすぎ。
孟子の性善説・荀子の性悪説は、どうすれば人間って善くなるの?という問いに軸を置いており、どちらも教育や学問、道理を知っていく事で善くなるから学ぼうね、という結論は共通。
孟子と荀子って師弟関係だし、二人とも孔子の儒教をやってるので仁を重視する。
結論部分では対立しないので、類似的な思想という認識。
性善と性悪は、そもそも人間はなんで悪い事するんですか?という前提の問いに対する答えに掛かっている。
孟子は人間は恥とか思いやりとか本来善くあろうとする意志はあるけど、後天的要素・環境・勉強不足で悪に走るとし、荀子は人間は欲求に従うようになっており本性的に悪だからと理由付けをする。
ここに差分はあるけど、先述した通り、結論としては学問していけば、本性が発揮されて/本性を克服して、人間善くなるので学べ! というもの。
結局、条件付きで人間は善くなれる以上、楽観でもなければ厭世でもないよね、というアレ。
ただ、前提理解が異なるから別物としてカテゴライズする必要がある。何故学問しなきゃいけないのかっていう理由付けが違うから。
これを踏まえて個人的には性善説寄り。
人間は怠惰で欲望に流れるどうしようもない傾向は否定できないけど、何だかんだ善くありたい意志も否定できないため。
純粋な善意はないかもだけど、その制限の中で善くはありたいんじゃなかろうか。ビジネス書なり自己啓発なり思想なりが廃れないのは、そこら辺の若干の現れだろうと思っている。こういったものの根底にはどうあるべきか、あるべき姿や理想は何かという定義付けが、形は違えど、そしてその定義が客観的に正しいかも別として、どうしたって避けられない。目的・目標のない方法論はナンセンス。精神的な何かを目指す方法論であっても、こう感じるのはそういう事なのでは。
目的となるあるべき姿・理想は、悪を避けるだけ(規範に従うだけ)なら別に抱く理由はないし、理想を追いかけるとなると、コストと言い手間と言い、いよいよ割に合わない。仮に怠惰を含めた欲求が本質に直結するなら、理想までは追わなくても糾弾されないのだから、最低限の規則だけ守っていればそれで良いとするのが自然。
それでも、あるべき姿や、善くなり得る事を前提として思考する・感じる・嫉妬する・学ぶ・規制する傾向もあるのだから、本当に見えない部分、損なわれない本質の中に若干の善が関わっているのではないかと考える。
ただあるべき姿の定義があまりに一様でないので、善が現実に芽生えることが可能かどうかは知らない。畳む