雑記 インターネット大好き人間なりにインターネットについて考えた文章。長い私見。 続きを読む 自分のインターネットのやり方が、好きなものは見る、苦手なものは機能を有効活用して見ない。うっかり見たら黙って薄目になってブラウザバックして無言で去るし、好きなものも無言で見たいときが来るまで待って見る。(特に長編小説は一気読みしたいので章や部が完結したタイミングでこそっと読んでいます) 今もそう! やり方は全然変わっていない。 見る見ないの判断や、見た後の勝手に消える感じは掲示板文化とか、そこらへんの何かを感じる。世代ではないけど、ここの人間関係が基本希薄で、たまに共通点を見つけて(あるいは作って)濃く(それでも現実世界的には薄い方)なる感じと、マイペースさが良いな〜と今も思っている。 多分、今となるとちょっと古臭いやり方だとも思う。 憧れというか自分が想像するインターネットは未だに回線と端末を持っている人間だけがアクセスして、インターネットそのものがいわゆる物好きの集団イメージ。物好きって語弊があるかも。でも、後述するがインターネットできたてのときはHTMLとかCSSとか本を見つつ手打ちでやるし、割と知識が必要ではあったはずで。 言いたいこととしては、自分のイメージするインターネットは今より狭い世界で、世間との境界線がある集団。だから、他者や他所と自分の間にある関係性の大枠が、個人と個人の関係性に還元されないイメージ。匿名性はあるけど、そもそも専用の機材と使えるだけの知識をわざわざ揃えているっていう共通項が強いので、インターネットは同好会みたいな集団そのものを示すに留まる感じ。 ただ自分の世代ではないので、完全に伝聞からのイメージだし、いうて当時のSNSがない頃のインターネットでも自分の個人サイトのリンクを有名所に貼ってもらうためにオフ会とかに行くとかあったと聞くので、そこらへんの活動方針は今と変わりがないな〜とも思う。 でも現代と比較して、結局インターネットをやっていて、個人のテキストサイトまで運営したり見たりするような母数は今ほど少ないと思っているけどどうなんだろう。当時の個人サイト運営は本当にHTMLとかCSSをテキストエディタで手打ちしなきゃいけないし。 ブログが出てくると話は変わってきそうだけど、でも発信者になるってそこそこ労力が必要。 一方で受信側はどうやって個人サイトやおもしろフラッシュに行き着くんだ? あと両者ともに回線料の問題があるし。 いや、どれも今もある話ではあるんですけど、今みたいに、もはやインフラ化している面はまだなかったなら使用時間やコスト面でもうちょっと手間が掛かったのでは、という推測。 必要とされる技術的にも知識的にも、集団として成立する程度の母数の狭さはあったんじゃなかろうかと思っている。24時間稼働のSNS的ではないという意味。 でも現代は、もう回線と端末は普遍的で誰もが持っていて当然に値するものになりつつあって、インターネットは最早誰でもアクセス可能。しかもアクセスが殆ど必須な世界に、現実世界の拡張版のようなものになっている。 ある意味同好会的な所に、誰もが入れるようになって、インターネットは集団で済まなくなった。多分本当に世界に近しいものになったし、主に匿名性も相まって、現実世界と異なる集団・コミュニティの定義をし始め、今では想像以上に個人と個人の狭い関係に還元されている感じがある。 そんなインターネットの中で黙って何かするのはもう根本的に合わないのかもしれない。仕事みたいに何でも報連相しないと不安と不満を煽るようになっている……かも。 現実世界とインターネットのコミュニティの定義と関係性の違いについて。 現実世界でのコミュニティはシンプルに国や市区町村、学校、会社など物理的で、かっちり明確に組織。コミュニティへの振り分けは個人の事実ベースで振り分けられる。例えばその人はどこで産まれたか、どこに住んでいるか、試験の点数、面接での受け答えで与えた印象など。 そして現実世界では産まれた以上、どこかの社会や家庭などのコミュニティに所属する事になるので、市区町村と住人、親と子供、先生と生徒などの予め決まった役割と関係性の大枠に、コミュニティが人間を当てはめる。その結果、各集団の中での役割による繋がりが大抵生じる。 (仕組み的に根無し草は不可能……だと思う。所属がある集団/所属がない集団に分割されて、後者に配置されたうえで世間と関係を築くため、結局所属がない集団に属する事になる) この大枠は半ば強制的な分、明確で、コミュニティから出ない限り消滅しにくい。逆にコミュニティ依存だから、抜ければ大枠はあっさり消える事が多い。 現実世界で言う友人や個人間・横の関係は、コミュニティがもたらす大枠の対象外。集団内での役割を(善悪どちらの意味であっても)超えた場合の関係なのかも。 一方で今のインターネット(主にSNS)では、誤解を恐れずに言うと個人の属性(何が好きか、何をしたいか、何が嫌いかなど)でコミュニティが切り分けられる一面がある。いわゆる界隈。事実も入り混じるけど、ここにおいて事実は属性を裏付けるサブ要素な感じがする。現実とは転倒している役割。 インターネットでの関係性の大枠は殆ど個人と個人。相手の発言から嗜好等を参照して、個人が相手の属性を判断するため、現実の人間関係より距離が近い。 そして、インターネット側は個人という枠を示しつつも、個人間を繋げるところまでは強制しない。他者の中身が可視化される場を与えるだけ。繋がるかどうかは現実世界と同様に個人に委ねるし、でも現実世界とは正反対に役割による個人間の繋がりは与えない。 強制されないが故につながりを作る事自体が難しい。そこに労力をどれだけ割くかは別問題として、その中でせっせこ作ると、そのつながりを重視したくなるし、反応がないと不安になる。黙っていると外観的には本当に無なまま、自分と無関係な話題が淡々と流れていく。 しかもなんやかんやで関係を切ったとあらば、その人の属性を知っているばかりに、何だか折に触れてうっすら思い出しては透けて見える。切れたはずなのに尾を引く。 インターネットは個人間の距離が近すぎて、世界が開けているようで関係の中で閉じていて、ここに自分のスタンスとの食い違いを感じる。 広いようで実は閉じた世界なら、そりゃあメンバーたる各人の反応は気になる。承認欲求より前段階の所属欲求的な部分にも関わるため。 インターネットのコミュニティ・集団の定義が曖昧で、個人対個人が本質とするなら、そもそも所属できるものなのか、という問題は一旦保留で。 承認欲求に関連して、インターネット上における承認の要請には所属欲求が多く含まれている場合が結構あるんじゃないか? とちょくちょく疑っている。 関係性を作ることは強制されないのに、他者の属性や他者と他者の関係性が、特にSNSでは文章やスタンプとかのやり取りで可視化されるから、疎外感と不安を煽る構図にはなっているよな〜。 この集団に所属できてるかわからないから承認されたいのか、所属できてるけど能力を正当に認められてないから承認されたいのか、ここらへんの境界は曖昧になっている気がする。 どのみち所属欲求の次に承認欲求があるっていうのがマズローだし、重なり合う部分があるのかも。 自分のスタンスの話に戻ると、多分自分は人間関係に重きを置かない性質が根っこにあるので、ここはインターネットと合わないのかも、という結論。 実際、現実で属する集団が変わると、前の集団の中での関係は凄くうす〜くなるし、そもそも自分が個人間の関係を築かないというのもあるし。これは一人すぎるかも。マイペースなのか……? インターネットはある意味個人を可視化しすぎちゃっているから、現実世界の方が個人の属性をひと目で判断できない分、人間関係が希薄になりがちでも許容してくれるのかもしれない。というか、現実は集団内で問題なく動けるなら十分としている、とも言える。 でも集団らしい集団がないからこそ、本来繋がりの強制がなく個人っぽく在れるからこそ、柵なく気ままにやれる面もあるし、本当に好きなものを見つけられる事もあるし、何だかんだ救われた事があるし、結局そういうところが一番好きでインターネットを続けている。功罪相半ばす、とか云々。人に影響を与えるものは大抵何でも両価的。 そもそも個々人にぴったり合う何かって滅多になくて、合わない部分、欠落した部分、余剰な部分とどう折り合いつけるかが問題の大半だとも思う。例にもれず、この話も同様。 身も蓋もないけど、個人としては色々考えてやっていくしかないのかも。離れるときは離れるし、離れないときは離れない。 人間、意外に変化と付き合っていける、が信条なのでゆるく付き合っていこうかな〜。 畳む 2025/09/22
自分のインターネットのやり方が、好きなものは見る、苦手なものは機能を有効活用して見ない。うっかり見たら黙って薄目になってブラウザバックして無言で去るし、好きなものも無言で見たいときが来るまで待って見る。(特に長編小説は一気読みしたいので章や部が完結したタイミングでこそっと読んでいます)
今もそう! やり方は全然変わっていない。
見る見ないの判断や、見た後の勝手に消える感じは掲示板文化とか、そこらへんの何かを感じる。世代ではないけど、ここの人間関係が基本希薄で、たまに共通点を見つけて(あるいは作って)濃く(それでも現実世界的には薄い方)なる感じと、マイペースさが良いな〜と今も思っている。
多分、今となるとちょっと古臭いやり方だとも思う。
憧れというか自分が想像するインターネットは未だに回線と端末を持っている人間だけがアクセスして、インターネットそのものがいわゆる物好きの集団イメージ。物好きって語弊があるかも。でも、後述するがインターネットできたてのときはHTMLとかCSSとか本を見つつ手打ちでやるし、割と知識が必要ではあったはずで。
言いたいこととしては、自分のイメージするインターネットは今より狭い世界で、世間との境界線がある集団。だから、他者や他所と自分の間にある関係性の大枠が、個人と個人の関係性に還元されないイメージ。匿名性はあるけど、そもそも専用の機材と使えるだけの知識をわざわざ揃えているっていう共通項が強いので、インターネットは同好会みたいな集団そのものを示すに留まる感じ。
ただ自分の世代ではないので、完全に伝聞からのイメージだし、いうて当時のSNSがない頃のインターネットでも自分の個人サイトのリンクを有名所に貼ってもらうためにオフ会とかに行くとかあったと聞くので、そこらへんの活動方針は今と変わりがないな〜とも思う。
でも現代と比較して、結局インターネットをやっていて、個人のテキストサイトまで運営したり見たりするような母数は今ほど少ないと思っているけどどうなんだろう。当時の個人サイト運営は本当にHTMLとかCSSをテキストエディタで手打ちしなきゃいけないし。
ブログが出てくると話は変わってきそうだけど、でも発信者になるってそこそこ労力が必要。
一方で受信側はどうやって個人サイトやおもしろフラッシュに行き着くんだ?
あと両者ともに回線料の問題があるし。
いや、どれも今もある話ではあるんですけど、今みたいに、もはやインフラ化している面はまだなかったなら使用時間やコスト面でもうちょっと手間が掛かったのでは、という推測。
必要とされる技術的にも知識的にも、集団として成立する程度の母数の狭さはあったんじゃなかろうかと思っている。24時間稼働のSNS的ではないという意味。
でも現代は、もう回線と端末は普遍的で誰もが持っていて当然に値するものになりつつあって、インターネットは最早誰でもアクセス可能。しかもアクセスが殆ど必須な世界に、現実世界の拡張版のようなものになっている。
ある意味同好会的な所に、誰もが入れるようになって、インターネットは集団で済まなくなった。多分本当に世界に近しいものになったし、主に匿名性も相まって、現実世界と異なる集団・コミュニティの定義をし始め、今では想像以上に個人と個人の狭い関係に還元されている感じがある。
そんなインターネットの中で黙って何かするのはもう根本的に合わないのかもしれない。仕事みたいに何でも報連相しないと不安と不満を煽るようになっている……かも。
現実世界とインターネットのコミュニティの定義と関係性の違いについて。
現実世界でのコミュニティはシンプルに国や市区町村、学校、会社など物理的で、かっちり明確に組織。コミュニティへの振り分けは個人の事実ベースで振り分けられる。例えばその人はどこで産まれたか、どこに住んでいるか、試験の点数、面接での受け答えで与えた印象など。
そして現実世界では産まれた以上、どこかの社会や家庭などのコミュニティに所属する事になるので、市区町村と住人、親と子供、先生と生徒などの予め決まった役割と関係性の大枠に、コミュニティが人間を当てはめる。その結果、各集団の中での役割による繋がりが大抵生じる。
(仕組み的に根無し草は不可能……だと思う。所属がある集団/所属がない集団に分割されて、後者に配置されたうえで世間と関係を築くため、結局所属がない集団に属する事になる)
この大枠は半ば強制的な分、明確で、コミュニティから出ない限り消滅しにくい。逆にコミュニティ依存だから、抜ければ大枠はあっさり消える事が多い。
現実世界で言う友人や個人間・横の関係は、コミュニティがもたらす大枠の対象外。集団内での役割を(善悪どちらの意味であっても)超えた場合の関係なのかも。
一方で今のインターネット(主にSNS)では、誤解を恐れずに言うと個人の属性(何が好きか、何をしたいか、何が嫌いかなど)でコミュニティが切り分けられる一面がある。いわゆる界隈。事実も入り混じるけど、ここにおいて事実は属性を裏付けるサブ要素な感じがする。現実とは転倒している役割。
インターネットでの関係性の大枠は殆ど個人と個人。相手の発言から嗜好等を参照して、個人が相手の属性を判断するため、現実の人間関係より距離が近い。
そして、インターネット側は個人という枠を示しつつも、個人間を繋げるところまでは強制しない。他者の中身が可視化される場を与えるだけ。繋がるかどうかは現実世界と同様に個人に委ねるし、でも現実世界とは正反対に役割による個人間の繋がりは与えない。
強制されないが故につながりを作る事自体が難しい。そこに労力をどれだけ割くかは別問題として、その中でせっせこ作ると、そのつながりを重視したくなるし、反応がないと不安になる。黙っていると外観的には本当に無なまま、自分と無関係な話題が淡々と流れていく。
しかもなんやかんやで関係を切ったとあらば、その人の属性を知っているばかりに、何だか折に触れてうっすら思い出しては透けて見える。切れたはずなのに尾を引く。
インターネットは個人間の距離が近すぎて、世界が開けているようで関係の中で閉じていて、ここに自分のスタンスとの食い違いを感じる。
広いようで実は閉じた世界なら、そりゃあメンバーたる各人の反応は気になる。承認欲求より前段階の所属欲求的な部分にも関わるため。
インターネットのコミュニティ・集団の定義が曖昧で、個人対個人が本質とするなら、そもそも所属できるものなのか、という問題は一旦保留で。
承認欲求に関連して、インターネット上における承認の要請には所属欲求が多く含まれている場合が結構あるんじゃないか? とちょくちょく疑っている。
関係性を作ることは強制されないのに、他者の属性や他者と他者の関係性が、特にSNSでは文章やスタンプとかのやり取りで可視化されるから、疎外感と不安を煽る構図にはなっているよな〜。
この集団に所属できてるかわからないから承認されたいのか、所属できてるけど能力を正当に認められてないから承認されたいのか、ここらへんの境界は曖昧になっている気がする。
どのみち所属欲求の次に承認欲求があるっていうのがマズローだし、重なり合う部分があるのかも。
自分のスタンスの話に戻ると、多分自分は人間関係に重きを置かない性質が根っこにあるので、ここはインターネットと合わないのかも、という結論。
実際、現実で属する集団が変わると、前の集団の中での関係は凄くうす〜くなるし、そもそも自分が個人間の関係を築かないというのもあるし。これは一人すぎるかも。マイペースなのか……?
インターネットはある意味個人を可視化しすぎちゃっているから、現実世界の方が個人の属性をひと目で判断できない分、人間関係が希薄になりがちでも許容してくれるのかもしれない。というか、現実は集団内で問題なく動けるなら十分としている、とも言える。
でも集団らしい集団がないからこそ、本来繋がりの強制がなく個人っぽく在れるからこそ、柵なく気ままにやれる面もあるし、本当に好きなものを見つけられる事もあるし、何だかんだ救われた事があるし、結局そういうところが一番好きでインターネットを続けている。功罪相半ばす、とか云々。人に影響を与えるものは大抵何でも両価的。
そもそも個々人にぴったり合う何かって滅多になくて、合わない部分、欠落した部分、余剰な部分とどう折り合いつけるかが問題の大半だとも思う。例にもれず、この話も同様。
身も蓋もないけど、個人としては色々考えてやっていくしかないのかも。離れるときは離れるし、離れないときは離れない。
人間、意外に変化と付き合っていける、が信条なのでゆるく付き合っていこうかな〜。
畳む