種々の雑記

    

雑記

    
自由の裏に適性がある事と自由と好悪の独立を延々考えた文章。

自由は選び続けた選択肢の中で、どれだけ残る択が多いかを指すと思っている。人間自体が時間的に有限だから、実質なんでも選べてなんでも究められる無制限な自由は実現不可能。その中で最大限の自由を考えると今の所、択の多さかな〜と思っている。

そもそも選択肢は知識なり経験なりで認識できる量が多かったり少なかったりする。選択肢の多さは認識の広さ。
選択肢の選び方は、好きだから、もあるけど、実質適性で選ぶ事もある。適性があるならその分野の知識は身につけやすいし、知識がつくなら経験に繋げることも容易だし。認識が広がりやすくて、選択肢が広がりやすい。適性があるものの中なら自由になりやすい。

適性があったとしても、どこかしらに天井は大抵ある。できないってその天井にぶつかる事だと思う。
できない事には諦めるか克服するかの選択を突きつけられるし、その二択を押し付けられる時点で自由でない。諦めたらその択は破棄(あるいは保留)だし。
ただ克服が、現実「ある」からパッと見の天井で物語るべきでもなく……。
克服できたなら択が増えるし、その増加率がえげつない事もある。仮天井みたいなもん。
反面、中々克服できない事もあり得て、克服できない事をやり続けるってある意味囚われる事でもある。

悲しい事に人間の時間は有限で、時間もコストとして消費するものである。その中で適性の意味を考えると、①天井が高くていくらでもこなせる事、②仮天井を抜くのが容易であることの2つの面があるのかな〜。どちらも選択肢を増やす効率を考えた位置付けではある。加えて、選択肢を増やせる高い可能性も示す。
択の多さが自由であり、適性は択を増やし続けられる効率と蓋然性とするので、自由の裏には適性がついて回る。
(人間が不死身なら時間をコストにしにくいから自由がもっと自由になりそうなんだけど、現実まだ無理っぽい。終わりがないのもそれはそれで不自由かも、とも思う。自由って現実に制限されるから言うほど自由じゃないな)

じゃあ、自由になりやすいもの、適性があるものが個人の好きに繋がるかっていうと、そんなことはなく! 好き/嫌いって凄い単純な理解だけど快/不快から発生するから、効率とか関係ない。感情だから、合理的とかじゃない。
大抵できる事が好きになりやすい(できない煩わしさが少ないし、他者から認められやすくて不快が少ないし、何よりスムーズにいくのも多い選択肢から選ぶのも基本的に楽しい)かもしれないけど、できない事が好きになる事も全然ある。できない事ができるようになるのはかなりの快感でもあるし、そもそも伸びしろを認識するとか、初めての事に対する期待感も快感寄り。
効率が良すぎて負荷がないと、飽きの問題もあり得る。何が好きかは個人差が大きい。

効率がそのまま快/不快に繋がるほど感情は単純ではない。自由にやれることが好きとは限らないし、好きだからといって自由にやれるわけではない。(命題にしていいかという問題は置いておき、対偶を取ると分かりやすいかも〜と思った。好きでない事では自由にやれない、自由にやれないなら好きではない。どちらも反例をあげられるので偽)一致していれば運が良い、という感じ。

快に浸りたいなら、人間言うほど最大限の自由はいらないだろう(選択肢を強要されない最低限の自由は要る)という話になるし、そう思うんですが、それはさておき、好きな物事の中でもっと自由になりたい気持ちもある。
自由や適性を見出したい・信じたいけど、ないときはないとも分かっている。やればやるほど、ない寄りだな〜と分かる事もある。
今の所、そこは自分の中で折り合いがついていないし、どう実践するべきかも分からないので、苦しい!!! ってなっている。
できなくても好きなら十分と思っても、やりたいことがあって、それが実現できない事を、好きだけでは中々諦めきれない。好きだけでは実現できないのも知っているから尚更。

あと不快を許容できる内は折り合いつけなくても良いかな〜とも。無理につけたってそれが快かというと、そう言う訳でもないし。納得は後からついてくることが多いし、理由は割と後付けな事も多い。
何がどう転ぶか分からないから感情は複雑で、気が滅入るし、面白くもある。
こういうものに自由って制限される節もあるのかも。合理的存在なら自由になるって割と納得。

補足というか、追加で自分が考える克服できる/できない事の傾向について。
技術面は理論上、大抵時間をかければゆくゆくは克服可能だろうけど、根源的というか感性的というか、主観的な部分に基づくものを克服するのは中々難しいという所感。後者は恐らく自己以外の存在が殆ど必要な部分でもある。

主観は狭く、同様に自分の認識している客観も狭いことがあるし、大概主観が入り混じってさらに狭くなる。
例えば、自分が何か大きめのミスした(客観的事実1)ので絶対怒られるし干される(主観)と思ったら、周りからすればよくあるミスだから今から挽回すれば計画上問題ないし(客観的事実2)、こっちも不手際ある(客観的事実3)から怒ってもしゃーない(主観)みたいに、客観的事実をどれだけ認識できているかは個々人の立場や経験によって左右される。客観に基づく思考だと思ったとしても主観的な事もよくある。
仮に客観的に良くある事を知っていても、絶対さ……無理じゃんね……! って主観部分を中々変えられない事もあるし、ギリギリ何とかなる! おしゃおしゃってなる事もある。複合型もある。
割と主観は融通が効かないときと効くときがあり、前者の場合はかなり根深い認識方法で克服が困難という事になるんじゃないか。

何はともあれ、限られた主観では択に限界があり、外部から提示されてはじめて、そういうのってありなんだ〜と択が増える事もある。
他者がいると別の天井の抜け方や道を思いがけず発見する事があるし、その快/不快も派生するから、やっぱり難しい。
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